インタビュー 脚本・監督 荒井晴彦に聞く

─まずは、原作との関わりからお聞きしたいのですが。

荒井 一九八三年の暮れに原作が刊行されてすぐに読んで「いいな」と思って「いけない、と思ったのと同時に、里子の周りから蝉の声が消えた。しんと鎮まり返った一瞬があった。里子は身体を弾ませるやうにして、市毛にしがみついて行った」というところ、画が浮かんだ。で、新潮社で高井さんに会って、映画にする当てはないけれど、原作を下さいとお願いした。快諾してもらったんだけど、実際に書いたのは七年前、あまりにヒマなんで(笑)。『この国の空』、石和鷹の『クルー』を立て続けに書いていた。

─そのときのホンと今回のホンは違っているんですか。

荒井 いや同じ。森重プロデューサーに短くしろと言われて、切ったのと、里子(二階堂ふみ)の乗った自転車が馬車とすれ違ってからかわれるシーンがあったんだけど、昭和二〇年の道が見つからなくて、それと役者が馬車扱えないと言われて切った。撮影に入ってから、セリフをかなり足したけど。

─自分で監督することになったのはどの段階ですか。

荒井 四年前だったか、鍋島寿夫に何か「戦争もの」はないかと言われて、あるよと、シナリオを渡した。動くかなと、トマトの『遠雷』で組んだふたりが、もう一度、「トマト」をやろうかって(笑)根岸(吉太郎)に読んでもらった。でも「脚本賞取りそうないい脚本だけど、こういう映画、誰が見るの?」と根岸に言われた。で、一昨年の暮れに鍋島プロデューサーから、戦後七〇年であれやりましょうと言われて、監督どうすると言ったら、自分で撮ればいいじゃないですかって。去年、根岸に会ったとき「俺がやることにした」と言ったら「撮らないとは言わなかった」って(笑)。

─原作にもっとも惹かれたのはどこですか。

荒井 里子にすれば、自分の戦後は垣根越しの不倫で地獄になるだろうというところで終わっているよね。そこに戦後に生まれて育ってきたわれわれの世代からの「戦後批判」が重ねられるんではないかと思った。直接的な批判ではないけど、「戦前・戦中」はだめで「戦後」はいいんだという神話を否定することはできるんじゃないかと。戦後は喪失の時代だったという江藤淳の「戦後と私」はあったけれど、戦争が終わって嬉しくないという主人公の小説が八三年に書かれたわけで、「あっ」と思ってね。日本は戦争が終わってよかった、よかったで、なぜ戦争が始まったのかという戦争責任、そして後始末としての戦後責任をちゃんとやってこなかった。「八月十五日」ですべてが変わったと小学校から教わってきたけど、そうじゃないんじゃないか、日本も日本人も変わってないんじゃないかと思うようになった。国のトップの戦争責任をあいまいにしたことがいけなかったんじゃないかと。

─その「戦後批判」は現在時点でも変わっていませんか。

荒井 変わってはいないけど、この映画は、それを直球でやってるわけじゃないし、ホームドラマでしょ。いまの時代に届くのだろうかとは思っている。この間のNHKスペシャルの「日本人と象徴天皇」でも、天皇の役割が大きく評価されていたからね。「戦争を終わらせた人」ということばかりが評価されているけど、「戦争を始めた人」でもあることを薄めようとしている。今、押しつけられた憲法だからと九条を変えようとしてるけど、九条の軍国主義解体、非武装化と一条の天皇制維持はセットな訳でしょ。俺は改憲派です、一条の。

─その「戦後批判」を含んで、日本映画の現在の相対的な視野に収まることのない大きな映画になっています。
一九五〇年代の豊かな日本映画からの連続性があります。

荒井 一九五〇年代の日本映画はなにも成瀬や小津らの巨匠たちの映画だけでなく、普通の映画でもレベルは高かったんじゃないかと思ってる。その五〇年代の普通の日本映画を目指しました。それと、この映画はセットで家の中が多いので初心者としてはどうしようかと(笑)。屋内といえば成瀬かと、演出部に『驟雨』や『山の音』のDVDを渡しました。

─太秦で撮ることになったのはどのような経緯があったのですか。

荒井 あの「家」がもうないからね。木造平屋で一番近いのは米軍ハウスじゃないかって。でも造りが違うし、やはりセットを組まなきゃいけない。でも東京の撮影所には土のステージがないんです。庭で野菜作ったり、防空壕掘ったりだから、どうしても土のステージじゃないとだめ。東映京都に決まったと聞いて、究極のアウェイだなと気が重くなったけど。

─音楽もとてもストイックに使っていて効果的でしたね。

荒井 下田逸郎に歌じゃなくて映画音楽やってみると言ったら、寺山修司の『書を捨てよ町へ出よう』をやったことがあるというから「これは前衛じゃないよ」って(笑)。でも、張り切って何曲も書いてきてくれて。メロディがうまい。学芸大学のライブハウス「APIA40」と神戸の「チキン・ジョージ」で録音しました。ラストと里子と市毛(長谷川博己)の絡みのシーンで使ったスキャットは音楽に持ってかれると川上皓市を始め反対が多くて、俺も迷ったんだけど、ダビングで別のをはめてみてやっぱりスキャットがいいだろうと、民主主義的に(笑)みんなを納得させた。

─「食事」のシーン、これを手を抜かずに撮っている。

荒井 広島出身の助監督がいて、「戦時中にこんなにモノを食べてばかりでいいんですか。農家に米を着物と交換しに行って、またすぐ銀行に米を買いに行く、どうなんですか」って言われた(笑)。若い人には戦中は飢えていたというイメージがあるようで、でも、肉を食べてる人も酒を飲んでる人もいた。むしろ、戦地や植民地から大勢の人間が帰って来た戦後のほうが、食糧の事情は大変だったわけでね。非日常の日常はきちんと撮りたかったんです。

─里子の市毛に対する思いは「恋」なのか、それともたまたま隣に住んでいた男という関係なのか、どう見るべきですか。

荒井 「恋」であるよりは「体」よりですよ。富岡多恵子が若い頃の恋愛は発情に過ぎないと言ってるけど。だから「そろそろそろそろ」って言いながら畳を転がる神代(辰巳)カットを撮った(笑)。戦争は間もなく終わるけど実際はいつ終わるかは分からない。市毛も九十九里で玉砕するとか言っていて、死ぬことが前提の「恋」です。母親の工藤夕貴が「奥さんを疎開させている男の所へ出入りするなんて、もってのほかって許さない。でも、こんな時代だから娘をよろしくお願いしますって頭を下げに行きたいくらい」と矛盾した母親の気持ちについて聞きにきて、「若い男はみんな兵隊でいない、残ってるのは年寄りばかり、市毛はまだ若い方だ、母親からすれば、この子は男も知らないで死んでしまうのかしら、だったら、妻子持ちだろうとなんだろうと、どうせみんな死んじゃうなら」ということだよと言ったんです。「書いた人から聞くとよく分かる」って言ってたけど(笑)。

─ラストのストップ・モーションは「発明」というより他ありませんね。

荒井 ラストのストップ・モーションからズームアップと神社の「蝉の声が消えた」は最初に原作を読んだときからイメージしてました。

─あれだけ長い時間をかけて顔に寄っていく効果には驚きました。これから里子の戦争が始まるという字幕が強く残ります。

荒井 字幕は脚本の最後の一行のト書きなんです。どう撮るんだと言われてて、声にしようかとか悩んだあげく、ト書きを撮ろうと。脚本家だしね。

─その前に市毛が、日本の無条件降伏のニュースを知らせに来ます。里子のいれた塩入りの紅茶とパンを食べる。そのパン屑を指で拾う里子、3カットくらいに割って撮っているこのシーンがいいですね。

荒井 パン屑を集めながら、日本がどうなろうと自分には関係がない、戦争が終われば奥さんと子供が帰って来る、それだけ考えている里子の気持ちを、あそこに見てもらえればいいんだけどね。

─その前に市毛が、日本の無条件降伏のニュースを知らせに来ます。里子のいれた塩入りの紅茶とパンを食べる。そのパン屑を指で拾う里子、3カットくらいに割って撮っているこのシーンがいいですね。

荒井 パン屑を集めながら、日本がどうなろうと自分には関係がない、戦争が終われば奥さんと子供が帰って来る、それだけ考えている里子の気持ちを、あそこに見てもらえればいいんだけどね。

─その後、里子の顔を濡らす雨、あれは八月十四日の夜なんですね。

荒井 そう。「玉音放送」と「青空」はやりたくなかった。雨で始まり雨で終わる。

─始まりは雨の中から聞こえてくるヴァイオリンですね。

荒井 うん、市毛の弾くヴァイオリンは原作にはないです。実は、俺の親父が若い頃ヴァイオリンをやっていたんです。三〇過ぎて召集された親父が入営する前、自費でブラームスのヴァイオリン・コンチェルトを弾いてレコードにした。遺書の代わりだったんだろうと思う。ポツダム上等兵で帰って来たから俺が居るんだけど、子供の頃、よくそのレコードを聞かされていたんだ。子供心にもあまり上手とは思わなかった。親父が死んだ時、ヴァイオリンを棺に入れましたけど。戦後七〇年でその親父のことをちょっと入れようと思った。

取材・構成=稲川方人
荒井晴彦
1947年生まれ、東京都出身。季刊誌『映画芸術』の編集・発行人。若松プロの助監督を経て、77年の『新宿乱れ街 いくまで待って』で脚本家デビュー。以降、『赫い髪の女』(79/神代辰巳監督)、『キャバレー日記』(82/根岸吉太郎監督)など数々の日活ロマンポルノの名作の脚本を執筆。キネマ旬報脚本賞を、『Wの悲劇』(84/澤井信一郎監督)、『リボルバー』(88/藤田敏八監督)、『ヴァイブレータ』(03/廣木隆一監督)、『大鹿村騒動記』(11/阪本順治監督)、『共喰い』(13/青山真治監督)で5度受賞。最多受賞の橋本忍と並ぶ。その他脚本を手がけた作品に、『神様のくれた赤ん坊』(79/前田陽一監督)、『遠雷』(81/根岸吉太郎監督)、『嗚呼!おんなたち 猥歌』(81/神代辰巳監督)、『探偵物語』(83/根岸吉太郎監督)、『KT』(02/阪本順治監督)、『やわらかい生活』(06/廣木隆一監督)、『戦争と一人の女』(13/井上淳一監督)、『海を感じる時』(14/安藤尋監督)、『さよなら歌舞伎町』(15/廣木隆一監督)など。97年『身も心も』では脚本・監督を務めた。